臆せずに真実を語る
人間の声は何百万年もの時を経て発達したツール(手段)です。私たちは声を様々なことに使います。例えば危険を知らせるため、身体の欲求を伝えるため、考えや感情を表現するため、期待や夢をほのめかすため、楽しませるため、自然を真似たり、人生で経験することや観察することを報告して知識を共有するために声を使います。又、私たちは不快感や不安、衝突や対立を避けようとして、自分たちにとって都合の良い状況に持っていくために人を欺くツールとして声を使うこともあります。
地球上のあらゆる生命体を支えているエネルギーは物質的ではなく、多次元的なものです。それは液体のようにすべてのものに浸透します。古い東洋の書物には「プラナ」、あるいは「気」と記されています。歴史の流れの中で探求されつづけてきた「気」は人間を取り巻く全てを網羅しています。 それは知覚能力のある生命体の内側を流れ、無生物の周りを流れています。人体においては皮膚、筋肉、結合組織、臓器、骨等、全ての組織の中に存在します。さらに、「気」は身体の機能を有意味に活性化させる人間の意識(アウェアネス)が神経を通るための媒体でもあります。
私たちの声には生まれながらにして微かな「気」の力が備わっています。新生児やよちよち歩きの頃は、偽りや混乱のない立場で「本物」の表現をします。その要求と必要性はとても性急でリアルなので「気」は何の妨げもなくサラサラと流れます。ところが面倒を見てくれる大人から受けるお仕置きとご褒美、あるいは拒絶と受諾などの経験を重ねるごとに、私たちの行動はパターン化されて行き「気」は濃く、密になっていきます。
「気」は皮膚の微小な穴から体内に入ります。自分自身に対する新しく得た考えや感情は、私たちを支えるこのエネルギーを歪めてしまいます。歪んだ「気」はスムーズに神経を伝わって行くことができずに私たちの神秘体にある主要なエネルギーセンターで滞り、身体の内外へのエネルギーの流れを塞いでしまいます。その人の混乱が大きければ大きいほど「気」を取り入れることができなくなります。
七歳になるころには「気」は呼吸や食べ物、飲み物を通して入ってきますが、それは集中力を保ち、油断をしないで生きるための必要最小限の量でしかありません。七歳以上の私たちは端的に言うと常に「気」に飢えているわけです。幾ら呼吸しても「気」を十分に取り込むことができないので、代わりに生命を維持するために必要な地球のエネルギーを得るために必要以上の量の食物を摂取してしまっているのです。
私たちは人を喜ばせるために過去の失敗からの巻き返しを図り、同じ失敗を繰り返さないように先の先まで考え、自分ではなく他者のために正しくあろうと必死になっています。こうして本当の自分を偽り、人の意見に巻かれてまで他者から承認されよう、受け入れられようとします。その時、私たちが発する言葉は他者との関係を育むものでも発展させるものでもなく、ただ自分の置かれた立場、状況を自分に有利になるように操作するだけのものです。
そうこうしているうちに、私たちは呼吸するとともに無意識に真実でないことを語るようになります。すると私たちの声の質と声の持つ力は低下の一途をたどります。。感情的、精神的に歪んでいれば歪んでいるほど、声はその人の要求と必要性を表現する力をなくしていきます。やがて私たちは人間関係において受動攻撃性を帯び、思考面では過度に生真面目になり、強制行動を取るようになり、挙句の果て誰も要求に対して聞く耳を持たない、誰も認めてくれないと文句を言うようになるのです。
この人間が陥る苦境から脱するためには臆さずに真実を語ることです。
フォームの終わり
まずは個人的なジャッジ(裁き)を止め、ジャッジされているように感じることを止めることです。そうすれば人をジャッジすることもなくなります。人間社会の意識は何千世代もの間ジャッジすることを学習してきました。「ジャッジしない状態」を達成するためには一貫性と誠意が欠かせないことは火を見るより明らかです。
次に、子供の頃に教え込まれたことを繰り返すような思考パターンを止め、自分の内面にある真実について語り始めることです。そうすることによって他者の意見を鵜呑みにすることがなくなります。こうして本当の自分を取り戻すことができた暁には、権力に向かって真実のみを語ることができるようになっていきます。自分が何をどう感じているかについて正確に真実のみを語る言葉は、自分のみならず相手への捧げものでもあります。
私たちは内的認識が広がるにつれて、心に描く考えやアイディアを伝えるという経験が増え、その比重は増していきます。アイディアは人間が体験すること全ての力の源と言えます。アイディアを共有しあうことで人類はこの変動の激しい地球で集団として生き残ってきました。それは権力に巻かれずに臆さず真実、世界との関わりにおける本当の自分の真実を語ることでした。
賢者はアイディアを語り、凡人は出来事について議論し、小者は人の話をする(噂する)、と言った人がいます。臆さずに真実を語るためにはゴシップは禁物です。今、この時代、何より大切なのは生命の源を尊重し、他者との関係において自分の本当の考えと気持ちを重んじることです。人と交わることを避けて独りになる方法はいくらでもあります。しかし、大切なのは他者と自分の似ている面に目を向け、その気づきの中の真実を操作するためでなく、共有するために語ることです。臆せずに真実を話すことで私たちはシンクロニシティー(共時性)の内に生きることができます。この状態の時、私たちは自主自立しています。
自己覚知と覚醒
最近、覚醒の話題が生徒や友人たちから何度か出てきました。
少し経緯をお話しすると、私は10代の時、祖母のロウェナを通じて覚醒という考えに偶然出会いました。祖母は、自己覚知の概念をアメリカに紹介したインド人のパラマハンサ・ヨガナンダに直接師事していました。ヨガナンダの本、『あるヨギの自叙伝』は非常に多くの人の心を開き、彼が設立したセルフ-リアリゼーション・フェローシップセンターを通してその教えはヨガナンダ自身がこの次元に存在し続けることを支えています。
1960年代後半にカリフォルニアのベイエリアで心理学を専攻し、アートを副専攻していたことが、その後のすべてを大きく変え、これまでの生き方と相反するような道に進むきっかけとなりました。大学および大学院での必須教材を終わらせた後、ヨガナンダによって伝えられたような自己覚知の概念や古典的な覚醒の記述や言い伝えを探求し始めました。伝統的なヒンディー系統や、スーフィー(イスラム教神秘主義者)、エソテリックキリスト教、ネイティブのシャーマンらのマスターによって伝えられた様々な目覚めに関する話を読むと、自分自身のマインドをリリースしたいという願望が強くなりました。そこで、私は自分の師を見つけようとしました。師を探すのは楽しく、実際にグルたちを追い求めました。そうしていなければ、the Enlightened Onesの様な目覚めた個人からなるスピリチュアルなエリートクラブのメンバーになっていたかもしれません。グルたちの講義を聞き、言葉を発する度にエーテルエネルギーがどの様に動くかを見ることで、私たち一人一人を通して普遍的な存在がこの次元にどのように流れてくるかが分かるようになりました。目覚めた人たちの個々の物語を読み、実際にその人たちと話をすることで、他の人たちとつながり続けられるか、続けられないか、という彼らの苦悩を垣間見ることができました。
私の人生の目標は、目覚めることになりました。私たち人間の意識の大きな側面である期待や知性の正しくある必要性に邪魔されない状態がどういうものかを、ただ想像することをやめました。目覚めることは、私がたとえ何があろうとも達成したい目標となりました。多くの素晴らしい覚醒の話を何年も驚きと尊敬の念を持ちながら見聞きした後、これらの話は、自分自身で課した眠りから自らを解放したという個人的な経験を物語っていることに気がつきました。覚醒は、本能的な知性である身体を通してあらゆる生命と繋がりながら、永遠に不変の魂と進化する人間のスピリットが結合することで個人の中に現れる静的な状態であることに気づきました。他の人が外から見ても、この状態は生命の本質そのものや、万物における私たち人間というものに関する無限の叡智であることが分かります。
目覚めの段階: 私の発見を通して人の覚醒について知り得たことは、この壮大な目覚めに向けて明確な段階があるということでした。最初の段階は自己認識、次に自己実現であり、この2つは全ての人にとって基本的なステップになります。多くの人はこの最初の2つの段階にとどまります。なぜなら、私たちは自分の価値を他者との比較で決めさせられる環境の中にいるため、人間の苦しみを客観的に理解するこれら最初の2つの段階を乗り越えて先へ進むことは難しいからです。私たちは唯一無二の存在として自分自身を見るように教えられていません。
自己認識: 自己認識を持つために、これまでの全ての経験を詳細に振り返る必要があります。過去の経験が今の状態や状況に関連しているからです。
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自分の周りを見渡してみてください。人間関係を見てください。自分のニーズや感情的欲求を満たすために買った物を見てください。
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自分の考えとそれに対応する感情がどのように作用するか、すぐに分かりますか。
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自分の考えや感情に対して全責任を持っていますか。
自己実現: 人生において変化を望んでいますか?
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自分が想像した未来を実現できますか。
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決めたタイミングに自分が欲したものを持っていますか。
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自分の状態や状況に基本的には満足していますか。
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人生の流れや展開の仕方に満足していますか。
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人生の中で、自分の精神的、感情的、肉体的なことを(他人のせいにせず)自分自身が指揮していると感じていますか。
残念なことに、幼少期のしつけや教育は、唯一無二の存在である私たちの中にある潜在的な貢献への理解よりも、深い自己憐憫を生み出します。「安全」な状態を保つために、親は厳しい現実から過度に子供を守り、「これをしてはダメよ。あれもしてはダメよ。」、「これをしなさい、あれをしなさい」と指示します。その結果、親の決めたダメなことと良いことの間でご褒美をもらったり罰を受けたりします。自分の欲求を満たすために他人を喜ばせることを学び、人生を個人的なものとして捉えていきます。たしかに、自身の身体が安全である様に正しい行動を学ぶことは大切です。しかし、子供を守るための親の指示は大抵身体の安全を守る以上のものがあります。この過程で、私たちは高次の永遠なる性質を失います。人間としての経験から生き残るために起こります。社会に出るまでの間に、西洋では大抵高校卒業後になりますが、それまでに私たちは全ての瞬間―毎回の出来事とそれに対する反射的な反応や対応―を個人的に捉えることが非常にうまくなっています。自分の身体が魂とスピリットの協働として表現されているという本来の性質を忘れてしまっているからです。
人生において、何かを選択するときに本当に導いているものは何でしょうか。愛や調和、それとも内なる平和といった壮大な考えが人生を導いてくれているでしょうか。答えは違います。自己認識と自己実現がなければ、人生は内なる葛藤のエネルギーによって導かれます。内なる葛藤は正しくある必要性を生み出します。平均的な人は内なる葛藤だけによって導かれているでしょう。私たちは何が正しく、何が間違っているか知るように教育されてきています。良いことと悪いこと。神と悪魔。より現実的に言うと、今の時代の内なる葛藤は次のようなものでしょう。「私は働いている時の気分が好きです、分かりますよね、達成感です。でも私は自分の仕事が好きではありませんし、上司が私の邪魔をします」。「私は家族を愛していますが、家族の私に対する見方や感じ方が好きではありません。ですから休暇中しか家族に会いに行きません」。「私は全能の神が私を見て、私自身から私を守ってくれているという考えが好きです。そして、宗教の偽善が嫌いです」。
葛藤が解放されるにつれて、核となる価値―内なる強さであり私たちを唯一無二にたらしめているものーによって私たちは導かれます。他者によって引き出されたこれらの内なる価値のエネルギーは、私たちの人間関係にも広がっていきます。私たちは目的の明確な、意図的なニーズを現実化するか、もしくは引きつけます。意図的なニーズは、人間の欲求や、こうなったら良いなという思考パターンの範囲を超えています。内なる葛藤が無いとき、純粋な意図によって自然に物事が展開していきます。意図的なニーズは核なる価値のエネルギーから生じます。思考と言葉、行動を一つにすることで、クリアな感情エネルギーを通して一瞬一瞬を生きることができます。内なる葛藤を手放した時、明確に自分自身を感じ、知ることができます。今までとは違う結果を得るために、今までと同じことを繰り返すことをやめます。
自己覚知: 自己覚知は3つ目の段階です。私たちが、自分自身が宇宙の中心(全てのことを個人的に捉えている状態)から離れると、自身の本質的な性質は身体、マインド、スピリットからなると気づき始めます。
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正しくある必要性を手放すと、私たちはバランスします。意識と感覚意識が一つの表現として働くにつれてマインドは拡大し始めます。
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殆どの間、ジャッジを手放しています。過去と未来に直接関係があるため、まだ自分の状態と状況を観察しています。全般的に見れば、未来に影響を及ぼすような過去の影響は無くなっています。
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核となる価値の投影として優れた洞察力を得るようになり、人生はより大きな次元現実を持つようになります。
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何が事実かすぐに分かるようになります。
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第一の感覚である嗅覚が優位になり、視力と聴覚は期待から自由になります。
自己統合: 自己統合は4番目の段階です。明晰性によりこれまでの人生を詳細に振り返ることができ、明晰性が自己認識、自己実現から自己覚知へと導いてくれます。最初の3つの段階を統合することで、基本的に些細なジャッジを手放し、人生に対する認識や期待の元となっていた内なる葛藤は殆ど無くなります。
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統合により、唯一無二の存在に自由になることができます。
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この段階では、感情エネルギーは次元現実を動かすために使われます。
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人生を個人的に捉えることをやめ、マインドの指揮により体験が引き寄せられたり実現化することを知っています。その結果、私たちが集中し観察することは多次元かつ起き得る平行現実に至る広範囲の次元まで広がりますが、まだ他者に受け入れられようと努力する中で作り出された義務に縛られています。
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全ての個人的な存在しうる現実は一つの叡智の表現に統合されます。
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意識が拡大するにつれて、直感的な知覚・認識が直線的な制約を超えて見えるようになっていきます。
古代の人は、すべてがマインドであると示唆しています。「すべて」です。マインドは知性とは関係がありません。マインドは脳ではありません。マインドは意識(永遠なる魂)、感覚意識(進化するスピリット)と本能的な知性の身体(遺伝情報およびエピジェネティックの情報)の3つの形が融合したものです。3という数は、聖書の中では父なる神、神の子、聖霊を意味します。これを真に理解するためには、すべての思考、言葉、行動を一つの意志のある意図として表現することです。3つが協働することで運命を現実化します。あなた自身が運命を指揮し、決めるのです。
自主独立: まさにマインドのターニングポイントです。
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全ての関係は今この瞬間のものとして経験します。過去が未来に投影されたものではありません。
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思考や感情は真の共感と思いやりを表しています。
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感覚と知性は身体の本能的な感覚意識と調和しています。
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時間の概念を超え、集合的な人間のマインドから叡智を取り出します。
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マインドとユニバーサル・マインドの関係を知っています。
自主独立の前は、マインドは絶えず動いています。自主独立の状態のとき、マインドは静かです。「もしこうだったら・・・」、「こうであればいいのに・・・」という考えがなく、常に毎瞬毎瞬が新しい状態にあります。それぞれの思考、言葉、行動は一つの意図として、人間の言葉で表すとすれば、感謝の純粋な喜びとして表現することができます。この段階では、あなたは本物の人間です。自主独立の前は、アイデンティティー、自己イメージは人の本質を十分に理解していない他人の意見から借りてきたものです。この段階ではもはや文化的に縛られていません。祖先の集合意識が解放されます。自由に自分自身でいることができます。
覚醒: 真の静的な状態であり、一度覚醒すると常に覚醒した状態になります。多くの人は、自主独立の状態が覚醒だと勘違いをしています。十分な経験・知識を持っていない人には同じように見えます。
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覚醒は、覚醒していないふりをやめたときに起きます。
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覚醒の瞬間、永遠なる魂の全ての転生が一つのタイムラインに統合されます(アカシックレコードでは、永遠なる魂は平均350回の転生があることを示しています)。
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それぞれの転生のすべての瞬間を知ることができます。全ての転生の関連する瞬間が今世のマインドで活性化します。
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覚醒は即座におきます。真摯な生徒はすぐに完全な覚醒がおき、瞬く間にマスターになります。唯一の例外は、もし生徒が覚者である師を非常に信奉していた場合、その師の恩に報いるために覚醒を遅らせるかもしれません。なぜならば、生徒も師も、覚醒は尊敬する師から与えられる贈り物だと考えているからです。そして師がこの世を去ったとき、生徒は自分自身が覚醒していると自由に言えるのです。
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覚醒していない人が、覚醒したと宣言をします。このような人たちは、彼らが支払う対価や供え物に興味を持っている人たちから覚醒していると教えられます。そうなると、師は自己覚知、自主独立と覚醒とは何であるか、知識を共有してくれるかもしれません。
人間の旅はこの時点ではまだ終わりには程遠いところにいます。覚醒の次に光明があり、光明の次に解放があります。この2つの段階により人間の旅は終わりを迎えます。あらゆる宗教、人生哲学は根本的には同じ考えー汝自身を知れーを持っています。人間としての私たちの道のりは自己認識から始まり、最終的には解放にまで辿り着きます。覚醒は人生を観察するのに適した状態です。覚醒は旅の終わりではありません。多くの人は、覚醒は「本物の人間」―間違いなく謎めいた、神秘的な賛辞になりますがーとしての始まりに過ぎないと信じています。